F 信松院 G 昼食・郷土資料館 H 時の鐘(念仏院)



■■信松院
 曹洞宗金龍山信松院といいます。御本尊は◆輝迦牟尼佛です。武田信玄の息女(四女とも六女ともいわれます)松姫尼を開基とし、天正10年(1590)創建の寺院です。
松姫は7歳の時に織田信長の長男信忠と婚約しました。しかし三方ヶ原の戦いで両家は敵見方となり婚約は解消されました。天正10年、武田家は滅亡し松姫は八王子へ落ちのび恩方にある心源院という寺に入って尼僧になりました。

■市史跡 松姫尼公の墓、
 松姫尼公は武田信玄の四女(六女とも言う)で、信松院の開基です。姫は、永禄四年(一五六一)に生まれ、七才のとき織田信長の長男信忠と婚約したが、その後、武田・織田の両家が不和となって、この約束は果たされなかった。
 天正十年(一五八二)武田氏滅亡の際、姪たち数人と八王子に逃れました。後、下恩方町の曹洞宗心源院ト山禅師により仏門に帰依し、この地に庵を建て教化にもつとめ尊敬を得ました。また武田遺臣等の庇護によって、よく節操を守り元和二年(一六一六)五十六才で、この地で没しました。

■松姫尼公墓
 松姫は武田信玄の娘で、武田氏滅亡後八王子に逃れ、出家して台町に住み、元和2年(1616)に当地で亡くなりました。墓地は死後132年目にあたる延享5年(1748)に千人同心千人頭達が玉垣を寄進して現在のような姿になりました。その後も松姫は千人同心の心の支えとなりました。
(上記の2項は説明板より引用)






  






本堂前で記念撮影






■八王子市郷土資料館
昭和38年頃、中央高速自動車道の建設にともない、市内宇津木町向原遺跡の発掘が行われ、多くの±器や石器が出土しました。昭和39年には、市内の陶芸家井上郷太郎氏が収集した貴重な考古資料約1,000点(井上コレクション)が市に寄贈されました。貴重な資料を保存・公開する施設を求める市民の声が高まり、東京オリンピック開催の記念事業の一つとして建設されました。市内出土の考古資料や市内で使われていた民俗資料などを収集、展示しています。

休憩・昼食に立ち寄る
   


   
























■時の鐘(念仏院)
  時宗時鐘山念仏院といいます。時計などがなかった昔、鐘によって時を知らせ、時の概念を与えることがその目的で、元禄12年(1699)7月に八日市の名主新野与五右衛門以下多くの発願で寄進されました。「日夜12時之刻」を知らせる時の鐘でした。この鐘は江戸神田鍋町の鋳物師椎名伊豫の作と伝えられています。

 以下、二つの説明板より引用。
◆寺設置の手書き説明板
この寺門にある時の鐘は元禄十二年七月(三〇〇年前)其の当時首長新野与五右衛門が発起人となり千人隊士を初め近在の有志により浄財をあつめ鋳造したものにして其の目方二五〇貫(八〇〇K)民衆に告ぐ時の鐘なのである
初め休念といふ小僧が打つ役を引きうけて以来元禄の昔から時を告げたのであるが昭和十六年十二月八日太平洋戦争が起り音響停止の処置により中断となる
当時の鐘楼堂は昭和二十年八月一日八王子空襲により焼失せり
戦后当山十六代禅喜和尚浄財をあつめ再建昭和二十九年三月都知事始め八王子市長外有志多数参列し盛大な落成式を修行せり現在に至る

◆市設置の 【市指定有形文化財 時の鐘】
  この鐘は、元禄十二年(1699年)七月、八目市名主新野与五右衛門を大旦那として、千人頭、千人同心、宿内15組をはじめ近郷村々の協力により鋳造されたものである。鐘の大きさは丈1m48cm、鐘銘に「武州多西郡八王子町時之鐘」と八王子町の名が刻まれており、270余年の間八王子15宿の人々に時を告げ、したしまれてきている。
        「時のかぞえ方』
   九つ 午前12時(子) 午後12時(午)
   八つ 午前 2時(丑) 午後 2時(未)
   七つ 午前 4時(寅) 午後 4時(申)
   六つ 午前 6時(卯) 午後 6時(酉)
   五つ 午前 8時(辰) 午後 8時(戌)
   四つ 午前10時(巳) 午後10時(亥)




  





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