C 「千人同心屋敷跡」碑 D 興岳寺 E 大久保長安陣屋跡





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C 「千人同心屋敷跡」碑
■千人同心屋敷跡
  甲州街道から分れ陣馬街道の起点となる八王子市追分町の追分町交差点近くに「千人同心屋敷跡」碑が建立されています。なお、小金井市にある都立小金井公園内の江戸東京たてもの園に八王子千人同心組頭の家が移築、保存されています。








「千人同心屋敷跡」碑






  

 甲州街道追分交差点歩道橋上から。
 道標  左 甲州道中高尾山道
      右 あんげ道






D 興岳寺
■興岳寺
  曹洞宗萬松山興岳寺といいます。御本尊は東方薬師瑠璃光如来(薬師如来)です。今から四百有余年前に甲斐武田氏の旧家臣石坂勘兵衛が徳川家康の旗本となり八王子に所領をもらい組屋敷内に菩提寺を建立しました。当時名僧の随翁舜悦禅師を開山として迎え、勘兵衛の子、弥次右衛門が寺領を寄進し堂塔を建立して開基となりました。文化六年(1809年)に火災に見舞われ全焼しました。八王子空襲でも全焼しました。ここには石坂弥次右衛門義禮顕彰碑があります。








本堂



坂弥次右衛門墓
 石坂弥次右衛門は名を義礼といい八王子千人頭の一人である。
 慶応四年(一八六八)三月、日光勤番(定番荻原友親の急死による代番として)に赴いて、隊員五十人を受け継ぎ任にあたった。同年閏四月新政府軍(板垣退助等)が日光に迫った時、幕軍の大鳥圭介等に謀り、交戦せずに日光を明け渡し帰還した。
 しかし、郷土八王子には攘夷派の批判もありその問責の声に、責任を負い一人同月十日自刃し六十年の生涯をとじた。
 法名 興樹院殿大忍義禮居士
 戦後の研究により、日光東照宮を今日にあらしめた功績者の一人として世にたたえられるに至った。                   (説明板より引用)



  






E 大久保長安陣屋跡
■大久保長安陣屋跡
  大久保石見守長安の生家は武田家の家臣でしたが、武田家滅亡により徳川家に仕えました。関東総奉行を務める一方で鉱山経営の才能を買われて金山奉行となりました。陣屋の周りには関東十八代官の屋敷が並び、八王子の都市計画はこの陣屋を中心に行われたといわれます。八王子陣屋にあっては武田遺臣を中心に八王子千人同心を組織して、西方への守りの拠点としました。江戸の西方への防衛線は多摩川と甲州境の子仏峠にあり、千人同心をその守備隊としました。
  金山開発に功績を重さ・長さの単位を決めた尺貫法を制定、五街道に一里塚を築き、宿駅制度、伝馬制度を実施するなど街道整備にも尽くしました。慶長十八年に病死すると徳川家康は、「不正蓄財」を理由に7人の息子を処刑、埋葬した屍を掘り出し晒し首にし、親類縁者の大名を改易・断絶の処分にしました。「大久保長安事件」として全国の諸大名たちに影響を与えました。
■産千代稲荷大明神
  関東十八代官の頭、大久保石見守長安の陣屋内の鬼門除の守護神として建立されました。大木が繁り稲荷森といわれました。神社に伝わるきつね伝説などから安産福徳の神と崇拝されています。当時は産千代稲荷神社のある小門町全域と上野町一部が陣屋の屋敷地だったようです。なお、産千代稲荷神社の入口の脇に大きな「大久保岩見守長安陣屋跡」の碑が建てられています。

当日は天候不良のため割愛しました




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